柿渋づくりのワークショップが8月18日、「さぎ山記念公園」の裏の体験農園(さいたま市緑区上野田)で開かれた。主催はアート集団「社会芸術/ユニット・ウルス」。
野良仕事をしながら未来に向けてアートを考える活動に取り組む同団体。月1回のワークショップのほか、11月に芸術祭を予定している。
柿渋は渋柿を発酵させて作る。平安時代末期から使用が始まり、特に江戸時代には木材保護、染料、防腐剤、医薬品など幅広い用途に利用されてきた。昭和になって化学製品の台頭とともに衰退したが、近年は天然素材の安全性が見直され、エコな染料や建築材の塗料として再注目されているという。
ワークショップでは江戸時代に植えられたという渋柿の木から、青く固い直径4~5センチほどの柿の実をもいで収穫した。収穫した柿をシートに広げ、竹や丸太で作った手作りのきねで柿をつぶし、げたを履いて柿を踏み、割れた柿をタンクに入れ、一晩置いたくみ置きの井戸水を注ぎ、しっかり踏み込んで圧縮。この後、農園で保管し、腐らないようにかき混ぜ、踏み込む作業を毎日続け、1週間後に搾り、保管して熟成させ半年後に柿渋が完成する。
250年間、代々当地で農業を営む萩原家の萩原毅(たけし)さんは「柿渋の発酵が進むと柿渋特有の臭いが、ワインのような酸味からまろやかな香りに変化する」と話す。毅さんの母の萩原さとみさんは「柿の実についている粉が発酵に必要なので洗わない。昔は見沼代用水の水がちょうど37度くらいの適温になるので、その水を利用して柿渋を仕込んでいた。かつてこの地域の特産品だった『赤山渋(あかやましぶ)』は質が良く、酒1升と同じ値段だったと先代から伝え聞いている」という。「赤山渋を塗ると光沢が出たので上級品だった」とも。
現在の川口市赤山周辺で江戸時代に生産を始めた赤山渋は、現在のさいたま市緑区や見沼区の地域でも作られるようになった。さいたま市内に今も残る「渋屋」という屋号の場所は、かつて柿渋を生産していた名残だという。
「関西の方では神社仏閣が多く、現在でも塗料としての需要があるため、柿渋の生産は続けられ産地もあるが、関東ではコンクリートの建築物が増えて日本家屋が減り、柿渋の生産も減少した。柿の木は切られて道路や畑になった。萩原家では昔から柿渋を生産し、問屋でもあった。近隣の農家から渋を集めて仕込み、製薬会社に卸し、中気(ちゅうき)や水虫の薬として利用された。かつては網元に卸すと、漁網を柿渋のたるに漬け込み、乾かすことを繰り返し、強度と防水性を持たせ、使用した」と毅さんは話す。柿渋農家がなくなっていく中で、萩原家は1970年代まで、最後まで赤山渋を生産していた。
ワークショップの参加者は柿渋を仕込む作業の合間に土のかまどで炊いたご飯や豚汁を食べ、主催者が用意した民族楽器で音を出して楽しんだ。